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| 赤坂の街のルーツをさがせ |
| 現在赤坂の原点、江戸に見たり |
| Vol.5 1993年秋号 P6-P7 |
| 記事:河端淑子 |
掲載イメージ
・江戸時代の赤坂周辺(右)
・広重が書いた「赤坂桐畑」(左上)
・大倉喜八郎邸(左下) |
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日曜日の朝まだき、赤坂の町にボーッとかすかな汽笛が聞こえる。平日は車や町の喧騒でかき消されてしまうのか、日曜の早朝だけ高台の住人の耳に届く。海と赤坂とはすぐには結びつかないが、考えてみれば赤坂は東京湾にほど近く、それだからこそ港区という区名も生まれたのだ。
歴史書によれば、港区は今から六千年前の縄文時代、現在の海面より海が三メートル高かったという。もちろん、太古の時代は日本列島の大半が生みの中であった。やがて海は徐々にひいて陸地の部分が増え始め、その上を雨水流れ、数万年の月日をかけて溝を刻んで川となり、谷となり、赤坂、麻布、白金、高輪などの高台の地形をつくったのある。
このあたりに人が住み始めたのは、前述の縄文時代で、当時をしのばせるものとして、現在の一ツ木通りからは貝塚が、青山墓地からは縄文式土器が発掘されている。 大和時代は水田が多かったため、荏原郡・桜田郷という地名となり、平安時代の末からは桓武平氏の江戸氏の勢力化となった。戦国時代は小田原の北条氏綱が上杉朝興(ともあき)を高縄原(現高輪)で打ち破り、やはり戦場であった一ツ木原で勝鬨を上げたという。
当時のこの付近、街道沿いは人馬の往来が絶えず、一ツ木という地名も、ここで人足が交代したので「人継ぎ(ひとつぎ)」が語源になったといわれる。これには街道沿いに大きな銀杏の木が一本あったからという節もあるが、ともかく賑やかななのは街道すじだけで、そのほかは見渡す限りの緑の野原と田畑で、その中に農家が点在してひなびた村落をなしていた。
現在の港区で当時の村名として記録されているのは、一ツ木村、原宿村、下渋谷村、今井村、桜田村、飯倉村、阿佐布村、芝村、三田村などで、四百年以上を経た今日に、文字通り「名残り(なごり)」をとどめているのが嬉しい。
また、赤坂の起源は現在の赤坂離宮(旧・紀伊徳川屋敷跡)のある高台が、その昔、茜が多く取れる茜山(赤土だったため赤根山とも書く)という山で、その坂を茜坂(赤根坂)といったところから「あかねさか」の音が詰まって「あかさか」になり、付近一帯を赤坂と呼ぶようになったという。茜坂は江戸時代に紀伊徳川家のお屋敷ができてから紀伊国坂と改名されたが、このふもとにあった旧・赤坂小学校が明治初年に開設されたばかりの時は、茜陵小学校と書いたというのも赤坂の名の由来を示唆するようで興味深い。
やがて、徳川家康が江戸の城の主となり、数年後に征夷大将軍に任命され、名実ともに天下を握ると、日本の総城下町として本格的な江戸城総構え計画工事が始まった。
赤坂地区が急速に開けていったのは、この時が契機で、近世赤坂への変貌の第一歩はまさにここにあった。赤坂は江戸城の西よりの他に山の手台地の一画をなすため、家康は江戸城西部外衛の地としておおいに注目したのである。かくて赤坂の台地には、徳川御三家の一つ、紀伊徳川家をはじめ、大身の旗本、大名屋敷に給地し、低地は幕末藩士の宅地にと分給し、以後この地は大名屋敷、武家屋敷町として定着、発展する事になった。また、赤坂には寺社が急激に増加したが、これは鎌倉、小田原、あるいは徳川氏や諸大名の縁故の地から寺が江戸に移動したり、諸大名自らが江戸屋敷の邸内に国許の寺社を遷座してまつるのが相次いだ結果であった。
江戸城大修造工事によって赤坂に造られた堀は、溜池と呼ばれる大きな池の形を成して、外堀につながっていた。溜池は江戸時代初期には上水源として用いられるほど水が澄み、その水面は対岸の山王日枝神社の杜を映し、川岸には緑したたる桐畑が広がる、江戸でも有数の風光明媚な土地であった。江戸時代の有名な浮世絵師・安藤広重が描いた名所江戸百景の中には「紀伊国坂赤坂溜池遠景」や、「赤坂桐畑」など、溜池を題材にした絵が何枚かある。おそらく、広重が絵筆をとるに充分な美しさであったのだろう。
やがて徳川十五代、二六五年の長きにわたって続いた江戸幕府が崩壊すると、徳川慶喜は駿府(静岡)に隠居することになり、旧幕臣の大半はそれに従って江戸屋敷を引き払い、旧大名もぞくぞくと国許に戻った。
赤坂が出会った最初の試練はこの時だった。住む人を失った多くの大名屋敷、武家屋敷は荒れ果て、敷地は草木が生い茂り、地価は大暴落となった。新政府は土地を払い下げて桑畑や茶畑にするように奨励策をとったが、効果はなく、赤坂は生気を失った。
が、やがて新政府が機能し始めると、旧大名や武家屋敷跡地に、京都から天皇とともに新しい都に移ってきた宮家や公家、新政府の高官が新たに屋敷を構えるようになり、皇居に近い赤坂の山の手は、東京屈指の邸宅地として再び息を吹き返した。
次に明治時代の赤坂の大きな変化の一つは溜池の埋め立て工事で、水量の激減で既に干潟となっていた池は、明治半ばには赤坂溜池町として生まれ変わった。ここには商店、料理屋、待合、芸妓屋が軒をつらねて繁盛し、のちの赤坂花柳界のもととなっていく。
また、赤坂には近衛師団歩兵第三連帯、同第四連帯、第一師団司令部など多くの陸軍施設が次々に設置され、「武士の町」は「兵隊の町」ともなっていった。やがて、近くに帝国議会ができると、赤坂花柳会は政界の客と陸軍の客が急増し、新興であるがゆえに伝統に縛られない新しい経営方法で大きく成長した。赤坂がのちに政界の奥座敷と呼ばれるようになる原点である。さらに日清、日露戦争による軍需景気により、時と地の利を得た赤坂花柳会は、その地位を確かなものにした。
さらに、明治から大正、昭和へと時は移り、赤坂は二つの地獄をみた。一つは関東大震災、もう一つは昭和二十年五月二十五日の太平洋戦争の大空襲で、この赤坂の大半が焼け野原となったのである。
敗戦は、米国の占領政策のもとに皇族、華族、財閥、政府閣僚などの特権階級に大きな変化を与えた。GHQの絶対命令により、直営をのぞく皇族の臣籍降下、華族制度の廃止、財閥解体、農地改革、軍隊の解体が次々に行われ、赤坂の山の手に住む人々は決定的な打撃を受けた。GHQは財産税として多額の納税を華族に命じ、大部分の華族は土地や屋敷を手放して義務を遂行し、広大な邸宅地はさまざまな実業家に買収されていった。
やがて、昭和三十九年の東京オリンピックとともに高度経済成長を迎えた東京は活気がみなぎり、赤坂も道路の拡張や、大会社のビルやホテルの建設が相次いで行われた。元・李王家の屋敷には赤坂プリンスホテルが、元・井伊直弼邸、伏見宮邸の地がホテル・ニューオータニに、また元・松平大和守邸、男爵大倉喜八郎邸がホテル・オークラに姿を変えたのであった。
歴史を辿ると、現代赤坂のルーツが徳川家康の幕府創設と江戸城総構え工事にあったことが浮き彫りとなってくる。そして、その時に与えられた土地の性格の多くが次代に、また現代にも継承されているのがなんとも感慨深い。
今、西暦二千年にあと僅かと迫り、赤坂の街には幾つもの高層ビルが屹立し、新しい都市開発の計画も練られている。まもなく溜池には地下鉄の駅が誕生し、人の流れにも変化がでてくることだろう。赤坂は変貌を繰り返しながら、さらなる歴史を重ねてゆくのだ。
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(河端淑子)
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